クレールフォンテーヌ特集7
2008年1月14日(月)の
http://www.fff.fr/actu/416588.shtml
を抜粋

フランスサッカー協会元会長、フェルナン=サストルのイニシアティヴで始まり、続くジャン=フルネ=ファヤー時代に完成し、クレールフォンテーヌのフットボールテクニカルセンターはイヴリン県で1988年1月4日にオープンした。フランスサッカーの財産とも言えるクレールフォンテーヌの歴史を20年経った今、当事者の思い出に沿って辿ってみよう。
フットボールナショナルテクニカルセンタープロジェクトは公式には1972年に生まれた。当時の会長、フェルナン=サストルが協会理事会に提案し、フットボール発展に欠かせない全てのアクションを可能にする環境の必要性を説いた。書類作成グループが決めた1983年12月に計画を具体的に固めた。30箇所を検討した後、56ヘクタールの敷地で、モンジョワにある、クレールフォンテーヌ=オン=イヴリン、ランブイエから7kmの場所が見つかった。建築に関わった“ブラ、フェレ、メフル”らが工事を任され、1984年12月8日、フェルナン=サストルがシンボルとなる“最初の石”を置いた。大規模な森林伐採の後、1986年2月に工事が始まった。
1985年から1995年までセンターディレクターを務めたジャン=フォレスティエは以下のように語る。“サストル会長のイニシアティヴに基づいて、環境計画に関わりながらプロジェクトグループに参加していました。クレールフォンテーヌの敷地を買い取り、建築許可書にサインし、私が関わった工事が1986年2月に開始されました。一番に思い出すことは、シャトーの中の吐き気を催すような匂いです。シャトーは長い間、使用されていなかったのです。経済面の目的は、ひとつのことを実現させてから他の様子を見る、ということでした。しかし、工事が進むにつれて、財政面がしっかり決まってきて、建築全体を実現することができたのです。つまり、INF、様々な宿舎、シャトー改修、レストラン、カフェテリアなどです。”
1988年1月4日、日曜日、指導者ナショナル研修会によりセンターは正式にオープンした。ロベー=ヌザレ、ドミニック=キュペルリー、パトリック=ゴンファロンヌらが最初の26人の参加者にいた。オープンした日に、INFヴィシーから、10時ちょうどに3学年がやってきた。彼らのディレクターである、クロード=デュソーと共に生徒は新しい場所へやってきたのである。最初の一歩は最高学年の“3年生”にとって困難なものであった。彼らには6ヶ月の育成期間しか残されておらず、プロレベルの冒険を試みる前であった。“18歳の時、我々の習慣、我々の目印、我々の友人はヴィシーにありました。ショックのようなものを抱えて生活していました。ところが友人でもあるコーチ、クリスチアン=ダミアーノは我々にとって素晴らしい人で、パパのような存在でした。”そう語るのは、元ディフェンダーのパトリス=マルセイユーで、現在、ゲール県テクニカル指導員である。
しかし、クレールフォンテーヌの歴史は続く。1988年1月23日、土曜日、フランス代表が初めてクレールフォンテーヌを使用した。2回のトレーニングとシャトーで一晩過ごした後、ルイス=フェルナンデズとパートナー達はテルアビブに向かった。その3日後にイスラエルで親善試合を行うためである。
この年の5月15日、新しい施設は既に2230人とフランス代表の合宿2回を受け入れることができた。ジャン=フォレスティエは1988年1月23日のことを良く覚えている。“フランス代表到着前日に準備が終わったのです。現場で全て調達しました。実際に、協会がフランス代表を迎え入れたのは初めてだったのです。それまでは代表は決まったホテルに泊まっていたのです。セキュリティ面、プレス対応の問題もありました。80人以上ジャーナリストがいましたよ。幸運にも、フィリップ=トゥフノン、当時のプレスチーフが助けてくれました。CTNFSの全メンバーのためにね。本当に大変な一歩でしたよ。後で考えると、ルイス=フェルナンデズのことを思うと笑ってしまいます。彼はカーペットの上でタバコを踏み潰していましたから。カーペットは真新しくて、シャトーに初めて入ったときでしたよ。彼の部屋をもう一度きれいにしなきゃ、ってね!”
センターは1988年6月11日の土曜日、フランソワ=ミッテラン大統領とミッシェル=ロカー首相により、落成式を行った。それは、フランスカップ決勝、メッツ対ソショー戦の数時間前であった。
“このことで忙しかったのです。”ジャン=フォレスティエは回想する“フルネ=ファヤー氏が落成式のために政府にレターを書いてくれと私に頼んだのです。スポーツ省に出せば良いと思っていたのですが、直接大統領に書いて、しかも日取りの選択の余地はない、と彼は強調するのです。つまり、フランスカップ決勝の日ということです。”450人の招待客がおり、その日は一日中休むことはできなかった。“そうは言っても、素晴らしい思い出ですよ。”彼は強く言う“5時15分から待って、フランソワ=ミッテラン大統領は10時ごろヘリコプターで到着しました。シャトー前でプレートの除幕をやらねばならなかったのです。私は大統領を助けてあげねばなりませんでした。風のせいで、誰かがプレートに国旗を貼り付けてしまっていたからです!”
他の思い出といえば、フルネ=ファヤー会長にオフィシエ=ド=オードルナショナル=デュ=メリット章が、フェルナン=サストルにレジオン=ド=ヌール勲章が贈られた時のこと。“勲章授与の際、ジャケットは何も付けていない状態なのですが、彼のブレザーはピンや他のメダルで一杯だったのです。我々はハサミを見つけなければならず、フルネ=ファヤー会長は躊躇しませんでした。全部切って、大統領の前で完全なジャケットを披露したのです。”
試行期間の数ヶ月のことはさておき、クレールフォンテーヌは素早く機能するものに、そしてフランスフットボールの発展に不可欠になる。それは、フェルナン=サストルが望んでいたものであった。1990年に、クロード=デュソーディレクターとコーチ陣(アンドレ=メレル、フランシスコ=フィリオ)の指揮の下、INFが前育成にシフトした。それまでINFはヴィシーにおいて17年歳のトレーニングが続けられていた。クレールフォンテーヌで育てられた1期生は1992年に卒業した。彼らは2年間生活し、非常に良い思い出を持っている。
“我々は非常に良いグランドに恵まれました。ガレットと呼んでいましたよ。我々の能力を開花させるために環境が整っていました。土日はパリ=サンジェルマンでプレーし、共同生活でまた新たな週をセンターの仲間と過ごすのがうれしかったですよ。指導者にも恵まれました。アンドレ=メレルと元ディレクターのクロード=デュソーです。彼らは、第2のパパ的存在でした。正直に、この2年間はテクニックが最も伸びた時でした。”ピエール=デュロックはそう回顧する。プロへと続いた最初の5人の生徒のうちの一人である。
クレールフォンテーヌは、フランス代表と選手との深い関係にもあった。1998年フランスワールドカップ期間中は代表のベースキャンプ地でもあり、センターとシャトーは7月12日の日曜日後、成功のシンボル、フランスサポーターにとって巡礼の地となった。クレールフォンテーヌは発起人でもあり、その前月の6月に他界したその人の名前を取り、“フェルナン=サストル”ナショナルテクニカルセンターと命名された。
育成に関して追求し続けるクレールフォンテーヌは、1998年の入学すぐにINFに相当する女子の機関を開始する。育成トレーニングナショナルセンター(以下CNFE)である。15歳の女子を集め、クリスチアン=コスト、ジェラー=プレシュー、フィリップ=ギヨトの下、未来の代表選手トレーニングが始まった。1期生には、ソニア=ボンパストー、ネリー=ギベー、アレクサンドラ=レイ、オダ=ラタッフ、ソニア=アジラジュらがいる。彼女は現在女子1部リーグのサン=ブリユーで選手兼コーチをしており、次のように回想する。“CNFEの開始は期待に答えたものでした。我々は、ダイナミックなグループで、35人のうち、15人程度が18歳以下代表でブルーノ=ビニと共に欧州選手権準優勝メンバーでした。このプロモーションに参加することは、フットボール選手としての目的でした。センターで過ごした日々によりテクニック面、フィジカル面が向上しました。良い思い出がたくさんあるし、グランドで再会するのはいつもうれしいですよ。”
前育成にかかわるINF、女子におけるCNFEの素晴らしい結果はクレールフォンテーヌを長い間国際的なものにしている。クレールフォンテーヌではナショナルコーチがユース代表のトレーニングを行い、指導者ライセンス講習会(国家免許、フットボールコーチ免許、育成者免許など)を長い時間かけて日々行っている。たくさんの外国の方々が自分達の育成者を要請するためにクレールフォンテーヌへ送り、彼らはこの方法やオーガナイズにインスピレーションを得るのである。“クレールフォンテーヌはフランスフットボールの窓なのです。”1998年11月からセンターディレクターのジル=ボックは語る。“たくさんの人が我々の施設を見に来て、インスピレーションを得て、彼ら自身の施設を創り出しています。外国の育成関係者もためらわずにシーズン前やシーズン中にここに来ます。クオリティーが高いということです。”
他から先行している時間とパフォーマンスレベルを保持していくために、クレールフォンテーヌは常に好奇心に溢れ、未来に向かって進まなくてはならない。2006年から、新しいメディカルセンターがオープンし、INF、CNFE、代表選手のメディカル、フィジカル面の研究を行うことができる。リハビリセンターもあり、ジャン=アラン=ブムソングのように、数人の選手がここで最終調整を行った。
クレールフォンテーヌは、つまり、発展を続け、近代的な計画もすでにある。ジル=ボックが正確に答える。“常に戦える状況でいるために、未来に向かって進み、常に好奇心を持たねばなりません。ここ2年で大規模な工事を行いました。しかし、まだ他の工事が残っています。女子A代表、ユース代表を迎える宿泊棟、研修館1、2が改修されるでしょう”こういった努力のお陰でクレールフォンテーヌはフランスフットボールや海外のモデルとなりえているのである。
クレールフォンテーヌにまつわる数字
• パリの南西50km
• 常時60人が勤務
• 敷地面積56ヘクタール
• 芝地帯66 000 m².
• 16 ロッカールーム
• 天然芝7面うち照明、スタンド、ロッカールーム付き天然芝1面
• 照明付き人工芝2面、屋根、照明付き人工芝1面 (50 x 80 m)
• 1 体育館 (44 x 24 m).
• 1 トレーニング、サウナルーム
• 森の中に健康ランニングコース1つ
• テニスコート3面
• 一日400食、150食(恒例行事用)
• 302 ベッド

1987-1988シーズン INF3年生
チームはクリスチアン=ダミアーノに率いられ、3部リーグに所属。1988年ガンバルデラカップ優勝写真
後列左から:Guillaume Warmuz (2年生) - Stéphane Adam - Emmanuel Hutteau - Gilles Beaumian - Christian Damiano (コーチ) - Sébastien Hizy - Réginald Ray - Philippe Augé - Bruno Clément
前列左から:David Bellime - Eddy Boncoeur - Roland Piselli - Eugène Ce Ougna - David Robert - Bruno Bergamelli - Philippe Rannou - Dominique Ottato - Patrice Marseillou

センター落成式
1988年6月11日、土曜日 センター落成式 壇上にはフランソワ=ミッテラン大統領

大統領がジャン=フルネ=ファヤー フランスサッカー協会会長にオフィシエ=ドゥ=ロードル=ナショナル=デュ=メリテ勲章を授与

フランソワ=ミッテランが続いてレジオン=ドヌール勲章を、ナショナルセンター創設の発起人、フェルナン=サストル フランスサッカー協会元会長に授与

二人の会長:ジャン=フルネ=ファヤーとフェルナン=サストル

メディカルセンター落成式
2007年5月31日 土曜日ジャン=ピエール=エスカレット会長をリネアー、ペティトドクターらが囲む












































